太陽、桜の花

桜の花は無限であり、永遠でありいずれ散る。そしてまた咲く。太陽の遠さ、その輝き。私は追い続ける。

非情なひと

昨日は心乱れる出来事があった。詳細は伏せるが僕を構成する些細な甘えが瓦解した。他者への信頼をどのようにして受け止めればいいのか分からなくなった。人間不信の塊なんだな僕と自覚を再認識した。
そのものを赦すということは簡単に出来る。なぜ、どうしてという要素が僕の中であたりがつくから。そしてそのものが不安となり起こさざるを得なかった罪に僕も加担しているから。
人が罪を起こす、悪徳に身を落としていくことに僕は駄目だとは云わない。どのような事情にせよ、人はそうならざるを得ない宿命を抱くことがあるから。
僕は許し難いのはそのような悪徳な状況であること、自らが不埒な行動をしてしまう罪を自らに許せないそのものの純粋さ、清純さ、臆病さなのだ。罪を起こすこと、人に不利益を被らせざるを得ないこと。其れは其れでいいじゃないか。それならそれでそのようにして、私に救いを求めて欲しかった。一度で諦めるなよ。実際に罪は起きたじゃないか。起こすしかないならば、救いを求めてくれた方がよっぽど救われたよ、僕は。
僕も似た人種だからよくわかる。なんて勇気がなくて、非常になれないで、貧相になれなくて、悪徳に身を汚せないんだろうか。本当にくだらなく、浅く、大成に値せぬ貧弱な人種だ。
そのものは理論をうちたてて、自らの悪徳を会話する術をもっていない。要はそれでもなお、付き合っていくか、いかないかなのだ。
私はいかないという絶対的な選択肢は取らない。しかし、私は赦すことはできない。赦すこと事態が僕には罪のように思う。悪いことをしたものはこれは悪いことなんだって伝える義務がある。被害者には被害者が取るべき責務があるのだ。私は傷つき悲しんだという気持ちを伝える義務が。
非情だと思う。悪だと思う。私は酷い人間だ。それを受け止める。私は今からすることはそういうことだ。私は私の責務を果たしたい。私は私という人間を成し遂げたい。そのために私はこの悲しみと苦しみを有耶無耶にはしない。
「白日」が頭の中に流れる。あの歌の意味と今の私が重なるのかはわからない。比べることもしない。ただ流れている。何かどうしようもできない悲哀を慰めてほしいと私の胸のどうしようもない形が泣いている。泣けない私の代わりに泣いている。
言葉にできない。考えたくない。一体何がやさしさで、幸せか。世界が幾重にも反転できる機能がこの頭の中に有れば全ては解決できるのに。貧乏や貧相なのは罪ではない。幸福から逃れようとする意思こそ大いなる神の犯した罪だ。僕は其れを我が肉親を見る度に思う。私はどのような立場であれ人は幸福になれると信じている。だからこそ喘ぐ、苦しみ、自らを貶める人々、私自身を含め憎い。私はそのような世界にそうではないと叫びたくてたまらない。
私は知らず知らずして誰かの幸福を無碍にしてきた。私の幸福もまたこのたび無碍にされました。
互いが互いを思いやり、やさしく、許しあうことができたならば、みんな苦しまずに済むんだろうな。
僕はもっと自分にやさしくなって、みんなにやさしくありたい。
もっと徳を高めたい。
本当にひどく狭い視野に泣かされている。悔しい。悔しくてたまらない。
私のエゴだ。私が取ろうとする行動で一体何が示されて、何が解決に向かうというのか。何も知らないくせにどうしてそこまでに夢中になるか。
ああ、途中であることが僕には許し難い。虚しい。やるせない。
どうしようもないほど、呆れるほど、離れ難い今なんだよな。嘘も方便も許されない強すぎる今から逃れられないな。今ここで生きてるから、僕という確実な不純な今に苦しんで、戦って、終わった時に間違ったことに泣くしかないんだな。やるしかないじゃん。それが人生やから。はい。

 

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